南山進流声明の沿革



高野山に伝わる声明
高野山(こうやさん)に伝わる声明を南山進流声明(なんざんしんりゅうしょうみょう)と言います。南山とは高野山の別称です。その昔、天皇がおられた都であった京都を中心として高野山はその南方にあるため高野山を南山と呼ばれるようになりました。また進流とは、声明の流派名で「大進上人流」(だいしんしょうにんりゅう)を略して「進流」といいます。大進上人とは南山進流の流祖である円明房宗観(えんみょうぼう しゅうかん)師の呼び名であります。進流はもともと高野山のものではありませんでした。大和(奈良)中川寺に本拠をおくものでしたが、高野山三宝院の正等房勝心(しょうとうぼう しょうしん)師が高野山に本拠を移すよう努力され、南山進流の声明と称するに至ったのです。

※高野山
和歌山県伊都郡高野町  海抜約1000メートルに位置し弘法大師入定の霊地として大師信者から多くの信仰をあつめている


四流にまとめられた声明
久安年中(十二世紀なかば)の頃のお話です。京都・仁和寺(にんなじ)金剛乗院覚性法親王のご興行によって、真言宗の寺寺から声明の達人と呼ばれる15人が選ばれて仁和寺大聖院(だいしょういん)に集まりました。73日間(72日間ともいわれる)という日数をかけて、それまで乱雑になっていた声明を校合(きょうごう)されまとめられたのです。その当時は、さまざまな声明が唱えられていたのでしょうが、流派の整理をするという意味で行われたものでした。
その結果、相応院流と醍醐流と進流の三流にまとめられ、音の調子を定める楽器も相応院流は琴を使い、醍醐流と進流は横笛を使うと決められました。その中の相応院流を本相応院流(菩提院流)と新相応院流(西方院流)の二派に分けられました。そして、それぞれの流派を代表する人を15人の中から選び四流の祖とされたのです。本相応院流には覚性法親王、新相応院流には能覚法印、醍醐流には定遍権僧正、進流には観験上人が選ばれました。そして、相応院流は京都・御室の仁和寺に、醍醐流は京都・醍醐寺に、進流は大和(奈良)・中川寺に本拠をおきました。


大和 中川寺とは
中川寺は中川寺成身院といい、実範大徳(じちはん だいとく)が開創されたお寺です。実範大徳は奈良興福寺や比叡山や醍醐などで仏教の学問をおさめられた高僧で、多くのお弟子さんを育てられました。その中に宗観師がおられました。宗観師は数多いお弟子さまの中でも、最も声明にすぐれておられました。のちに宗観師のことを大進上人と呼ぶようになりました。
宗観師の弟子に、久安年中の声明の校合に参加された観験(かんけん)上人がおられます。観験上人は、宗観師の声明を先師の別名である大進上人にちなんで「大進上人流」と名付けられて、これを略して「進流」といいました。


真言宗の声明のはじまり
もちろん日本に真言宗をもたらしたのは弘法大師ですが、お大師さまの頃の声明に関する文献が現存しません。もっとも、お大師さまの時代に音曲を伴った讃が唱えられていたことは間違いないのですが現存する史料がないのです。真言宗の古徳で声明家として文献に記録されている一番古い人は、弘法大師より7代先の広沢遍照寺の寛朝(かんちょう)僧正となります。よって、真言宗では声明家のはじまりを寛朝僧正としております。
寛朝僧正は宇多法皇(うたほうおう)のお孫さまで、宇多法皇に従って出家し、美声で素晴らしい声明を唱えられたということです。多くの作曲を手がけられそれらの曲は現在も唱えられています。


進流声明の本山を中川寺より高野山に移す
寛朝僧正のあとは、寛朝―想壽―信禅―忠縁と引き継がれ、別に寛朝―雅真―仁海―成尊―明算―教真―実範と引き継がれていきました。実範師のお弟子さまに宗観師があります。宗観師は実範師のほかにも忠縁師にも受伝されており、声明の達人であったことが伺えます。
宗観師のお弟子様に観験師があります。観験師は先述の通り、南山進流声明のもととなった「大進上人流」を名付けた人で別名“紀伊上人”と呼ばれました。
観験師の同門に中川寺成身院に住した上月房聖海(じょうげつぼう しょうかい)師があります。聖海師のお弟子さまに慈業上人(じごうしょうにん)があります。
その頃、観験師に声明を学び、高野山の三宝院に住していた正等房勝心(しょうとうぼう しょうしん)がありました。勝心師は寛喜4年(1232)から5年間にわたり、高野山の第41代目寺務検校(じむけんぎょう)の職についた高僧です。勝心師は観験上人の名を汚すことない声明の達人でありました。その頃、高野山は弘法大師 入定(にゅうじょう)の霊峰であり、本山でありながら声明の本流が伝承されていませんでした。これを遺憾なことと思われた勝心師は、大進上人の法孫にあたる慈業上人に手紙を送り、高野山に進流声明の本山を移したい旨をお願いしたのです。慈業上人は、その当時の諸山に相談をされ、諸山の賛同を得て遂に進流声明の本山を高野山に移すこととなったのです。
以後、高野山に南山進流声明として生まれ変わり、現在に至るまで脈々と伝えられているのです。

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